『自分らしく』は贅沢なのか

どうも。kurumiです。

 

先日ある動画を見ていて、『自分らしさ』について考える機会がありました。

 

『自分らしさ』『自分らしく』

 

我々LGBTQの当事者とは切り離せない言葉。

御多分に漏れず、行政の啓蒙活動にも多く使われていて

『性の多様性を認めて自分らしく生きられる社会へ』といった言葉が書かれたポスターは今や全国でみることができます。

 

国がそうした方針を、少なくとも言葉にしてくれるのは頼もしい気がしながら

全く進まないセクシャルマイノリティへの理解に対してやきもきしてしまう。

 

はて、なぜこうなのだろうかとSNSを見てみると、出るわ出るわのLGBTQ批判。

 

「他にもマイノリティや苦しんでいるひとは大勢いる。なぜセクシャルマイノリティだけ配慮しなければいけないのか。」

「LGBTQって特別扱いが当たり前になってない?」

「殺されるわけでもなく普通に生きられているんだから、これ以上なにを与えろっていうんだ」

 

どうやら行政の活動と政治の動きに乖離があるように、世間と我々もまた乖離してしまっているらしい。

 

果たして、世間の言葉通り

我々が自分らしく社会で生きることはどういうことなのか

そしてそれは贅沢なのかということについて少し考えてみたいと思います。

 

大前提としてセクシャルマイノリティが社会に対して求めていることのひとつに

『公平であること』『平等であること』

があるということについては、あまり相違が出ることはないと思います。

 

ではその公平や平等が指すものは一体なんなのでしょうか。



今年6月CMAL(Canadian Medical Association Journal)に掲載された論文によると

トランスジェンダーの子供は自殺未遂のリスクが7.6倍

レズビアンの子供の自殺未遂リスクは3.3倍

ポリアモリーバイセクシャルパンセクシャルの場合は8倍にものぼるそうです。

 

これはカナダの15〜17歳の青少年を対象とした調査の結果で、こうした自殺に関連する思慮や行動の原因にはいじめやセクシャルマイノリティ特有のストレス、セクシャルマイノリティに対して否定的な学校環境などが考えられるとのこと。

 

参考:

www.cmaj.ca

 

もちろん、それぞれ個人の理由が複合的に影響した可能性も捨てきれませんが、それでもセクシャルによって左右されるこの数字を前にして『平等な社会』が実現できているとは言えないでしょう。

 

それと同時に『平等な社会』は自然に訪れるという幻想も否定しなければなりません。

 

これは私の個人的な考えが強く反映されていますが、日本人の多くは「必然」を好む傾向があるように感じます。

物事の流れに抗わず、訪れるべきものは然るべき時に訪れるといった考え方です。

自然と共存して生きてきた日本人らしい考え方で私も嫌いではないですが、社会においては幻想であるといっていいでしょう。

 

社会は完全に人間が作り出したコミュニティの形です。

偶然もなければ必然もありえません。

社会の形を変えるのは、いつだって能動的な働きかけでしか成しえないのです。

 

要するに、セクシャルマイノリティを疎外して、セクシャルマイノリティの子供たちを自殺に追い込む社会は、他でもない、人間が作り出したものだということです。

そしてそれを是正できるのもまた、人間しかありえません。

 

2005年に同性婚が認められ、法律をもってLGBTQの保護に乗り出すという積極性を見せるカナダでさえこの数字であると考えると、より意識的に平等を作り出す気概がないといけないことがわかります。

 

より良い社会を作るためにもっとみんなで考えようよ!ということは今回は一旦置いておいて、ここではセクシャルによって命の危険が増えてしまっている事実に着目します。

 

CMALに掲載された論文の結果を平たくいってしまうと

『自分らしさが認められづらい社会では命の期限に差が生まれている』

ということになると思います。

 

これは大問題です。

自分らしく生きることが命に直結しているのなら

自分らしいが贅沢だなんて言ってられません。

 

まあ、それでも反対派の人たちの言いたいことはなんとなくわかる気がします。

 

「本当に自分らしく生きられている人は一握り。

自分たちだってなにかを押し殺して生きているんだ。」

ということですよね。ごもっともです。

 

しかしこうして考えると、私たちの望む『自分らしさ』と

彼らの言う『自分らしさ』は同じではない気がしてきました。

 

なにか致命的にポイントがズレている気がします。

 

そもそも自分らしさとはなんでしょう。

ネットで検索してみるとこうありました。

 

自分の価値観を大切にして、自然体で言動が行えること

参考:https://tech-camp.in/note/pickup/74737/

 

また、こうも書いてありました。

 

自分の特徴や性質を十分に発揮するさま、意識して抑制するのではなくあるがままの姿でいるさま、などを意味する表現。

参考:https://www.weblio.jp/content/%E8%87%AA%E5%88%86%E3%82%89%E3%81%97%E3%81%8F

 

これらを総合して推察してみると、いわゆる『自分らしさ』は『個性』を指す言葉として使われることが多いようです。

 

しかし私たちのセクシャルマイノリティとしての性自認性的指向は、個性とは少し違います(性の多様化に個性という言葉が使われがちなことに私が嫌悪していることもお伝えしておきます)。

 

個性と調べると

他の人とちがった、その人特有の性質・性格。個人の特性。(Oxford Languages)

と出てくるように、個性とはそもそも他の人と違うことが前提な印象です。

 

ここでぜひみなさんに考えてほしいのですが、他人と全く同じ人って、います?

 

少なくとも私は、そうではないと思っています。

だから、セクシャルマイノリティを理解してほしいという感情も

「あなたは普通の人だけど私は違うから理解してくれ」

ではなくて

「あなたも一人の、他とは違った人で、私もそうなんですよ」

というニュアンスなんです。

 

そう考えると、押しつけがましくも特別感もないですよね。

だって特別でもなんでもないんですもん。

 

そしてこれは相手にも言えることです。

 

例えば、カミングアウトを受けた人が

「誰のことも好きになれないのって変だよ」

と思うのではなくて

「俺は恋愛的に好きって感情を持つけど、お前は違う好きを持つんだな」

と受け取ってくれたら、特別でもなんでもない。

 

「だってお前は俺のこと、親友として好きだろ?」

とでも付け加えたらなんとも

その人とは一生友達でいれそうです。

 

要は、自分も人と違うことを理解して

『”違う”ということが同じ』であることを見つけるのが大切なのだと思います。

 

ただ、現実はそう上手く行かず、どうしても生きづらい局面が拭えません。

 

あなたと同じように”違う”だけなのに、私だけなぜか生きるのが困難になってしまっているんです。

 

あなたと同じように”違う”だけなのに、私は”違い”が理由でいじめられる。

あなたと同じように”違う”だけなのに、私は”違い”が理由で就職できない。

あなたと同じように”違う”だけなのに、私の”違い”はテレビで笑いものになっている。

 

あなたも私と同じように”違う”ことを理解してくれていたら、それは本当にありがとう。

そんなあなたが居てくれて本当に感謝しています。

 

ただ、あなたのように”違い”を理解してくれる人ばかりではありません。

どれだけ説明しても訴えても、どうしても”違う”ことを理解してくれないのです。

 

だから、私があなたと同じように生きられるように、ルールを作ってください。

私があなたと同じように生きられるように、法律を作ってください。

 

これは果たして、贅沢なのでしょうか。わがままでしょうか。

もう一回、考えてみてくれると嬉しいです。

 

 

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