同性婚裁判-11.30東京地裁-

どうも。kurumiです。

11月30日に同性婚裁判の東京地裁判決が出ましたね。
今回はこのことについて触れたいと思います。

東京地裁判決では

憲法24条1項(結婚の平等)と憲法14条(法の下の平等)については合憲
憲法24条1項(個人の尊厳)については違憲状態

という判決が言い渡されました。
なお、原告が請求している損害賠償については認められませんでした。

 

まず前提として、よく聞く疑問を解消しておきましょう。

「なんで賠償金を請求してるの?」
「結局、ほしいのはお金?」


全国5か所で行われている同性婚裁判に対してよく言われるこの疑問。

この答えは明確です。
目的はお金ではありません。

ではなぜ損害賠償を請求しているのか。

これも理由は明確で

『損害賠償を請求しないと裁判が行えないから』

というこの1点に尽きます。

厳密にいうと、日本の裁判制度では憲法問題を取り上げる直接的な目的で裁判をすることができません。
裁判所が訴えの内容を考えるにあたり、憲法判断をする必要があると決めた場合のみ憲法についての判断がなされます。
なので、同性婚裁判のように憲法を問題として取り上げたくても、一旦は具体的な権利侵害によって被った損害の賠償について訴えを起こして、
その中で憲法における人権が侵害されているという主張をする必要があります。
この具体的な権利侵害による損害賠償を、お金を請求するという形で表現する必要があるのです。

なので決してお金が欲しくて裁判を起こしているわけではないですし、
正直損害賠償に関して棄却されていること自体は、裁判の主旨を考えるとあまり大きな問題ではないと言えます。


では本題の憲法に違反しているかどうかという点について。
まずは札幌と大阪の判決を振り返りましょう。

まず、憲法24条1項
結婚の自由を認めた憲法について。

この点については、先に判決の出た札幌・大阪の両地裁でも違憲ではないという判決がなされています。
憲法制定時、同性愛は精神疾患とされていた背景があり、
憲法を作るにあたっての結婚はあくまで異性間のものを想定されていたので違反とは言えない、というのが理由です。

言いたいことはいろいろありますが、まぁ仕方がない判決といえるでしょう。


そして大きな争点と考えられているのが憲法14条。
14条は法の下の平等について記載されています。

法律の下では全ての国民が平等である必要があるのに、同性愛者であるだけで結婚ができない。
パートナーとの関係を保証されないせいで不利益を被っている現状は不平等である。
というのが、訴えの内容ですね。

これについては、札幌地裁と大阪地裁で大きく判決が別れました。

まずは札幌地裁。

札幌では、
民法及び戸籍法が、異性愛者に対しては婚姻を認め、
同性愛者に対しては、その法的効果の一部ですらも認めないとしていることは、その限度で合理的根拠を欠く差別取扱いに当たる』
と結論し、憲法14条1項に違反すると結論づけました。

解説いらないレベルでいい判決ですね。嬉しい!!

一方の大阪地裁は
同性婚の制度導入について法的措置が取られないことが将来的に違憲になる可能性はある』
としたものの
『婚姻は異性間で子供を産み育てる関係を保護する目的で伝統的に定着した制度であり、
同性間の人的結合関係にどのような保護を与えるかについてはなお議論の過程にある』
同性カップルと異性カップルの享受し得る利益の差異は相当程度解消ないし緩和されつつある』
『仮にその差異の程度が小さくないとしても、
その差異は、婚姻類似の制度やその他の個別的な立法上の手当てをすることによって更に緩和することも可能である』
として合憲との判決を下しました。

要するに大阪地裁は
「子供が出来ない同性カップルに保護を与えるならもうちょっと話し合わなきゃね」
「そもそも、最近はもうあんまり困ってないんじゃない?パートナーシップもあるし」
「まあ、仮に保護が必要だとしても、結婚じゃなくても他の方法で解消されるならその方法考えればいいよね」
「そう考えると結婚できないからって理由で実害はないよね?」
と言いたいわけですね。

原告の方たちの話、ちゃんと聞いてくれました?
同性カップルだって、子供いるよ?
悲しい。。。


こうして司法の判決が真っ向から対立したといっても過言ではない状況下で行われた東京地裁判決。
そりゃ注目度はとても高いものでした。


結論としては冒頭にも書いた通り
憲法24条1項、憲法14条共に違憲とは言えない』
との判決に。

しかし前2か所の判決と違うのが、憲法24条2項について触れられた点です。


憲法24条2項は、個人の尊厳と両性の本質的平等について触れられた憲法です。
夫婦別姓の問題などでも論点として取り上げられることがありますね。

この点に関して

『同性愛者についてパートナーと家族となるための法制度が存在しないことは、
同性カップルの人格的生存に対する重大な脅威・障害である』
『個人の尊厳に照らして合理的な理由があるとはいえない』

として憲法24条2項に違反する状態にあるとの判決が出ました。

14条の合憲判決はちょっと納得いかないですが、東京地裁なりに訴えの主旨は理解してくれたように感じます。

しかしここで気になるのが違憲ではなく違憲状態という言葉にとどまった点。
違憲ではなく違憲状態とはどういう意味か。


デジタル大辞泉によると

・『違憲状態』 法律や制度などが憲法の趣旨に反している状態を指す
・『違憲』 憲法の規定に違反することを指す

とのこと。

そうなると、あれ、喜んでいいのでしょうか。
違憲状態という言葉を使うことによって程度の違いはあれど、
言いたい内容としては大阪地裁とそれほど変わらないのでは?

違憲状態という言葉を使ってくれたことは、
まあ、ありがとうなんですが
結局、主体的な判断から逃げたとも感じられます。

「ここで結論は出さないよ、棄却してあげるから高裁いっておいで。
とりあえず、札幌地裁判決と大阪地裁判決の間をとったような判決にしとくね。」

といったところでしょうか。

言葉だけ考えたらね、ありがたいんだけど。
なんだかもやもやが拭えません。

 

次回は12月8日福岡地裁
勇気ある判決を願います。

『自分らしく』は贅沢なのか

どうも。kurumiです。

 

先日ある動画を見ていて、『自分らしさ』について考える機会がありました。

 

『自分らしさ』『自分らしく』

 

我々LGBTQの当事者とは切り離せない言葉。

御多分に漏れず、行政の啓蒙活動にも多く使われていて

『性の多様性を認めて自分らしく生きられる社会へ』といった言葉が書かれたポスターは今や全国でみることができます。

 

国がそうした方針を、少なくとも言葉にしてくれるのは頼もしい気がしながら

全く進まないセクシャルマイノリティへの理解に対してやきもきしてしまう。

 

はて、なぜこうなのだろうかとSNSを見てみると、出るわ出るわのLGBTQ批判。

 

「他にもマイノリティや苦しんでいるひとは大勢いる。なぜセクシャルマイノリティだけ配慮しなければいけないのか。」

「LGBTQって特別扱いが当たり前になってない?」

「殺されるわけでもなく普通に生きられているんだから、これ以上なにを与えろっていうんだ」

 

どうやら行政の活動と政治の動きに乖離があるように、世間と我々もまた乖離してしまっているらしい。

 

果たして、世間の言葉通り

我々が自分らしく社会で生きることはどういうことなのか

そしてそれは贅沢なのかということについて少し考えてみたいと思います。

 

大前提としてセクシャルマイノリティが社会に対して求めていることのひとつに

『公平であること』『平等であること』

があるということについては、あまり相違が出ることはないと思います。

 

ではその公平や平等が指すものは一体なんなのでしょうか。



今年6月CMAL(Canadian Medical Association Journal)に掲載された論文によると

トランスジェンダーの子供は自殺未遂のリスクが7.6倍

レズビアンの子供の自殺未遂リスクは3.3倍

ポリアモリーバイセクシャルパンセクシャルの場合は8倍にものぼるそうです。

 

これはカナダの15〜17歳の青少年を対象とした調査の結果で、こうした自殺に関連する思慮や行動の原因にはいじめやセクシャルマイノリティ特有のストレス、セクシャルマイノリティに対して否定的な学校環境などが考えられるとのこと。

 

参考:

www.cmaj.ca

 

もちろん、それぞれ個人の理由が複合的に影響した可能性も捨てきれませんが、それでもセクシャルによって左右されるこの数字を前にして『平等な社会』が実現できているとは言えないでしょう。

 

それと同時に『平等な社会』は自然に訪れるという幻想も否定しなければなりません。

 

これは私の個人的な考えが強く反映されていますが、日本人の多くは「必然」を好む傾向があるように感じます。

物事の流れに抗わず、訪れるべきものは然るべき時に訪れるといった考え方です。

自然と共存して生きてきた日本人らしい考え方で私も嫌いではないですが、社会においては幻想であるといっていいでしょう。

 

社会は完全に人間が作り出したコミュニティの形です。

偶然もなければ必然もありえません。

社会の形を変えるのは、いつだって能動的な働きかけでしか成しえないのです。

 

要するに、セクシャルマイノリティを疎外して、セクシャルマイノリティの子供たちを自殺に追い込む社会は、他でもない、人間が作り出したものだということです。

そしてそれを是正できるのもまた、人間しかありえません。

 

2005年に同性婚が認められ、法律をもってLGBTQの保護に乗り出すという積極性を見せるカナダでさえこの数字であると考えると、より意識的に平等を作り出す気概がないといけないことがわかります。

 

より良い社会を作るためにもっとみんなで考えようよ!ということは今回は一旦置いておいて、ここではセクシャルによって命の危険が増えてしまっている事実に着目します。

 

CMALに掲載された論文の結果を平たくいってしまうと

『自分らしさが認められづらい社会では命の期限に差が生まれている』

ということになると思います。

 

これは大問題です。

自分らしく生きることが命に直結しているのなら

自分らしいが贅沢だなんて言ってられません。

 

まあ、それでも反対派の人たちの言いたいことはなんとなくわかる気がします。

 

「本当に自分らしく生きられている人は一握り。

自分たちだってなにかを押し殺して生きているんだ。」

ということですよね。ごもっともです。

 

しかしこうして考えると、私たちの望む『自分らしさ』と

彼らの言う『自分らしさ』は同じではない気がしてきました。

 

なにか致命的にポイントがズレている気がします。

 

そもそも自分らしさとはなんでしょう。

ネットで検索してみるとこうありました。

 

自分の価値観を大切にして、自然体で言動が行えること

参考:https://tech-camp.in/note/pickup/74737/

 

また、こうも書いてありました。

 

自分の特徴や性質を十分に発揮するさま、意識して抑制するのではなくあるがままの姿でいるさま、などを意味する表現。

参考:https://www.weblio.jp/content/%E8%87%AA%E5%88%86%E3%82%89%E3%81%97%E3%81%8F

 

これらを総合して推察してみると、いわゆる『自分らしさ』は『個性』を指す言葉として使われることが多いようです。

 

しかし私たちのセクシャルマイノリティとしての性自認性的指向は、個性とは少し違います(性の多様化に個性という言葉が使われがちなことに私が嫌悪していることもお伝えしておきます)。

 

個性と調べると

他の人とちがった、その人特有の性質・性格。個人の特性。(Oxford Languages)

と出てくるように、個性とはそもそも他の人と違うことが前提な印象です。

 

ここでぜひみなさんに考えてほしいのですが、他人と全く同じ人って、います?

 

少なくとも私は、そうではないと思っています。

だから、セクシャルマイノリティを理解してほしいという感情も

「あなたは普通の人だけど私は違うから理解してくれ」

ではなくて

「あなたも一人の、他とは違った人で、私もそうなんですよ」

というニュアンスなんです。

 

そう考えると、押しつけがましくも特別感もないですよね。

だって特別でもなんでもないんですもん。

 

そしてこれは相手にも言えることです。

 

例えば、カミングアウトを受けた人が

「誰のことも好きになれないのって変だよ」

と思うのではなくて

「俺は恋愛的に好きって感情を持つけど、お前は違う好きを持つんだな」

と受け取ってくれたら、特別でもなんでもない。

 

「だってお前は俺のこと、親友として好きだろ?」

とでも付け加えたらなんとも

その人とは一生友達でいれそうです。

 

要は、自分も人と違うことを理解して

『”違う”ということが同じ』であることを見つけるのが大切なのだと思います。

 

ただ、現実はそう上手く行かず、どうしても生きづらい局面が拭えません。

 

あなたと同じように”違う”だけなのに、私だけなぜか生きるのが困難になってしまっているんです。

 

あなたと同じように”違う”だけなのに、私は”違い”が理由でいじめられる。

あなたと同じように”違う”だけなのに、私は”違い”が理由で就職できない。

あなたと同じように”違う”だけなのに、私の”違い”はテレビで笑いものになっている。

 

あなたも私と同じように”違う”ことを理解してくれていたら、それは本当にありがとう。

そんなあなたが居てくれて本当に感謝しています。

 

ただ、あなたのように”違い”を理解してくれる人ばかりではありません。

どれだけ説明しても訴えても、どうしても”違う”ことを理解してくれないのです。

 

だから、私があなたと同じように生きられるように、ルールを作ってください。

私があなたと同じように生きられるように、法律を作ってください。

 

これは果たして、贅沢なのでしょうか。わがままでしょうか。

もう一回、考えてみてくれると嬉しいです。

 

 

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わたしだけの意思とバランス感覚

どうも。くるみです。

今日は私のお話を少しします。

 

最初に同性を恋愛対象として意識したのは、確か中学生くらいの頃だったと思います。

ただ、よく聞く”戸惑い”や”自己嫌悪”のような気持ちは全くなく、好きだな、とそれだけ。

そもそも誰に教わるわけでもなく、自分は恋愛対象を性別で分ける”タイプ”の人間ではないことを自覚していたし、同時にそれが世間の”普通”からズレていて、不用意にそのことを周囲に言ってはいけないことも不思議と理解していました。

周囲と違うことを理解しながら、分別をつけて、その違いを肯定していたのです。いいのか悪いのかは置いといて。

 

性的指向についてこう考える自分に納得することができたのは『BAD KIDS』という小説のセリフが大きなきっかけかもしれません。

 

「(前略)それが証拠に、そういうことを何も教えられてない子供たちを、無人島に連れてってほっといてみなさいよ。十年たって全部が全部、男と女のカップルになってたら、かえって驚きだわ。」

(『BAD KIDS』村山由佳

 

確か小学生だったか中学生だったか、そんな頃に読んで強く納得したのです。

それ以来、自分の中で芽生えた感情にも動じることはありませんでした。

 

そんな感じで学生生活を経て、男性との恋愛も経験して今に至ります。

要するに私は、性的指向のせいで傷ついたり苦しんだりしたことは、ほぼないのです。

 

LGBTQ関連の話になると、いじめられたり、差別や周囲の不理解を受けた話が出てきます。

そういったものを目にするたびに、そういう経験をしてこそ初めて一人前のセクシャルマイノリティ!と言われているような気持になって

「大して傷ついた経験もないのに、自分が発信者になるなんて!」と恐れ慄いていたのですが、よく考えたらナンセンスですよね。

だけど、そんな気持ちを持ってる人、少なくないと思う。

 

自分は自分でしかないのだから、自分自身の価値観と経験、感覚を大切にしたい。

 

わたしは今、本当に権利を奪われていると思っているから、必要だと思っているから、こうやって小さいながらに声をあげているけれど、ピンとこないうちはやる必要なんてないし、ピンとこないことは悪いことでもなんでもない。

先頭に立って声をあげる人が偉いなんてことは絶対にない。

 

最終的には、現状よりも平等な社会を求めているのだから、こういった活動の中で新しい区別や差別を生み出さないように、それくらのスマートさとバランス感覚は持っていたいなと、そんなことを考えています。

 

ただ、当然のように存在したいだけ。

始めまして。くるみといいます。

30歳、女性でデミロマンティック、デミセクシャルです。

一般的には、レズビアンです、といったほうがわかりやすいかもしれませんね。

 

このブログではジェンダーやセクシャルに関する様々なことについて私の考えを発信することで、考えてもらうきっかけを作れたらと思っています。

同時に、関西のLGBTQについて発信していきたいとも考えています。

現状、LGBTQの活動はやはり東京一強という感じで、日本中どこにでもセクシャルマイノリティは存在するのに、地域間で活動や日常生活での生きづらさに差が出てしまっている現状があると思っています。

とはいえ、私も全然わからないことだらけです。

ただ、理解できないことがもどかしいと感じる。

そんな気持ちも公開して、一緒に考えていけたらと。

 

そして最終的な目標は

同性婚(あるいか多様な性の関係において婚姻制度に準ずる制度”が日本で認められること。

 

私には、同性のパートナーがいます。

結婚観の変遷などは追々書いていきますが、国の制度として”共に生きる”権利をないがしろにされている今の日本の制度には疑問を持っています。

 

”多様な性の在り方”と声高に叫んでおきながら、国の制度として権利を与えない。なんで?

過去に比べたら多くの”同性婚賛成”の声があがっているのにも関わらず、いまだに制度を作る検討すらされていない。どうして?

 

もしかしたらもっと別のアプローチがあってもいいのかもしれない。

多くの声が挙がることはもちろん心強いけど、国を動かす決定打がそれではないのかも。

いつしかそんな可能性を考えるようになりました。

 

そのためには、もっと知って考える必要がある。

そして、そんな人が増える必要がある。

 

そしてその小さなきっかけがここから一つでも生まれればうれしいなと、そんな風に思っています。